先日父を天国に送りました。88歳でした。私にとっては父であると同時に、牧師として、また保育園の園長としても先輩であり、手本であり、目標でもありました。寂しさはありますが、漫才コンビ「カミナリ」のマナブさんが、「死んだ時に悲しんで欲しくないんですよね。この人は良い人生だったよな、と言って欲しいんですよ」と言っていたのを思い出し、父もそういう人だったはずだと、感謝をもって送り出しました。

 親孝行という言葉があります。皆さんはこれをどう捉えているでしょうか。一般的には親への恩返しとして、老後の面倒を見ることであるとか、何か感謝の気持ちを表すことであるとか、そのように捉えている人が多いと思います。改めてネットで調べてみると、「親に真心をもってつかえ、大切にすること。親に孝行を尽くすさま」とありました。まさに、恩返しや感謝の気持ちを表すのは、親孝行そのものだということがわかりました。

また、親孝行として「食事に連れて行った」「食べ物や飲み物をプレゼントした」「旅行に行ってもらった」という声が多いという調査結果も紹介されていました。一方で、7割近くの人は、親孝行ができていない、あるいは十分ではないと感じているとのこと。「親孝行、したい時には親はなし」という言葉がよぎる結果となりました。

では、どこまで、何をすれば、親孝行できたと満足するのでしょうか。あるいは、親から受けてきたたくさんの愛に報いるためには、どうすれば良いのでしょうか。仮に、自分を育て上げるために掛かった費用を計算し、その分をお返ししようとしたら、とてもではありませんが十分に報いることができたと納得するのは難しいでしょう。だから、せめて食事や旅行に招待して、納得しようとしているのかもしれません。

でも、親の気持ちになって想像すると、子どもが何かをしてくれようとしている、その気持ちが何よりも嬉しいと思うのではないでしょうか。ご飯食べに行こうと連れ出された先が町の小さな食堂だろうが、温泉旅行に連れて行ってもらった宿が安宿だろうが、そうした気持ちを抱いてくれたということを喜ぶのだと思うのです。プレゼントを買えない子どもが「肩たたき券」を贈ってくれたら嬉しいですよね。園で一生懸命描いてきた似顔絵をプレゼントしてくれたら、嬉しいですよね。つまり、この世的な価値とは関係なく、その心、気持ちを喜び、受け止めるのです。

 そして、私が親孝行として最も重要だと思ってきたのは、私自身の人生をしっかり生きることです。もし、私が悩み多く、日々をため息ばかりで暮らしていたら、親としてそんな姿を見るのは辛いでしょう。それよりも、毎日をしっかり生きている姿を見られたら安心です。加えて、次の世代となる子どもたち(孫たち)をしっかり育てること、これもまた孝行だと思ってきました。言わば、親から託されたバトンを、しっかり次の世代に渡していくことは、確かに親孝行なのだと。

 だから、親孝行したい時には親はなし、などと嘆く必要はないと思ってきました。人生は決して楽な道ばかりではないし、子育ても然り。でも、迷いながら、悩みながらでも、与えられた人生をしっかり生き、子育てもやり遂げることが大切なのだと信じます。

園長:新井 純


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