新年度を迎えました。在園児はすでに新チームでの保育が始まっており、今日からは新入園児を加えて本格始動です。この1年も子どもたちが健やかに成長することを祈り願いいつつ、共に歩んでまいります。どうぞよろしくお願いいたします。

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 先日卒園式が行われました。昨年度は26名の園児が卒園していきました。長い子ではこの園で6年間過ごしたので、その成長を見守ってきた職員たちも感慨深くこの式に列席しました。式の中で「思い出のアルバム」というプログラムがあります。1年の歩みを振り返り、特に思い出として残っていることを一人ひとりが発表し、その季節に歌っていた歌を皆で歌うのです。春の山登り、夏のプール、秋のあそぼう会、クリスマスページェンと、冬の餅つき郵便屋さんごっこ等々、あんなこともあったね、こんなこともあったね、と思い出しながら、子どもたちの言葉に耳を傾けます。

今年も思い出のアルバムの発表があったのですが、一人の子がこのような発表をしました。「平和の話をたくさん聞きました。広島の原爆の話を聴いた時は怖かったです。ぼくは戦争が嫌いです。だから、大きくなったら戦争を止めに行きます。」驚きました。

 私たちの園では、夏に戦争の愚かさや悲惨さ、そして平和の大切さやそれを守ろうとする努力の尊さを一緒に考え、学びます。8月初めには「平和の集い」というものを開催し、給食もあえて粗食にするなどの疑似体験もしています。その中で、園長が広島在任時に出会った被爆者との交わりや、その方から繰り返し聞かせていただいた被爆時の体験談などを子どこたちにも語り聞かせています。そうした取り組みを続けてきた中で、「戦争が嫌いだから、止めに行く」という発想が出てきたことにとても驚きつつ、感動しました。

 正確に言えば、戦争は良くないとか、戦争がなくなれば良いという言葉は子どもたちの口からもよく出てきます。しかし、具合的に「止めに行く」と言った子に出会ったのは初めてでした。

 同時に、はて?この子はどうやって戦争を止めると考えているのだろう?と思い巡らせました。そのことを担任に尋ねてみると、その子は自衛隊の隊員のような絵を描いていたそうです。なるほど、そういうことか。

 厳密に言えば、防衛のためとは言え武器を持って戦うことになれば、相手を傷つけ、あるいは自分が傷つけられることになりますから、戦うことを容認しないキリストの教えには添いません。でも、今ここでそれを言うのは野暮だと感じました。戦争によって傷つき傷つけられている多くの人々のことに思いを馳せ、この苦しみや悲しみから一刻も早く人々を解放するために、自分がその渦中に飛び込むのだという心意気は、純粋に平和を願うものだと思ったからです。もちろん、太平洋戦争の時の特攻隊が、国や家族を守るためだったということで美化されてしまえば、結局またその惨劇を繰り返すことことになります。ですから、この子の「戦争を止めたい」と言う思いが、大きくなった時にどんな形で本当の平和をもたらすものとなるのかに期待したいと思いました。今の私たちには想像もつかないような手段で平和を実現するかもしれない、子どもたちの未来にそんな希望を見出すのでした。 
 園長:新井 純

園医の森先生がたくさんの絵本をプレゼントしてくださいました。その中に「からすのせっけん」という作品がありました。

 先日、幼児のクラスで保育士がこの本の読み聞かせをしたところ、困惑する事態に陥ったようです。というのは、子どもたちが絵本に出てくる「固形石けん」というものを知らなかったからです。固形石けんそのものを知らないので、使い方はもちろん、石けんが使っていくうちに小さくなっていくという物語の面白さそのものが伝わらなかったらしく、自分の中での当たり前が当たり前ではなかったことに保育士はジェネレーションギャップを感じ、動揺したのでした。

 言うまでもなく、最近は液体石けんが主流で、しかも手のひらに出した時点で既に泡になっています。石けんは泡立ててから洗うことで汚れやばい菌をうまく浮き上がらせて流すので、最初から泡の状態で出てくるのはとても便利なだけでなく、衛生的にも効果の高い改良です。

 一方で、泡になるボトルしか知らなかったらどうなるかを想像してみるのです。同じ液体石けんでも液のまま出てきたら、それを上手に泡立てなければなりません。ましてや固形石けんなら、まず最初に手と一緒に石けんも濡らし、これをこすって石けんを手のひらに移していかなければなりません。ちょっと経験すればできるようになるとは思いますが、慣れないとハードルは高いかもしれません。実際、担任は家から固形石けんを持ってきて、子どもたちに使わせてみました。すると、案の定泡立てることが出来なかったそうです。そこで画用紙を固形石けんの大きさに切り、子どもたちに固形石けんの使い方を教え、石けんが小さくなっていく様子を毎日観察するようにしたのでした。

 仕様が変わったために使い方がわからなくなっていく例は他にもたくさんあるでしょうし、今後ますます増えていくでしょう。それは決して悪い事ではないし、不都合だと決めつけるものでもありません。例えば、火打ち石で火を起こしていたのが、マッチを擦るだけで良くなり、次にライターに変化していき、さらにはコンロなんかだとつまみをひねるだけで着火するようになりました。IHコンロなんて、火さえないのに煮炊きが出来るのですから不思議です。それが当たり前になった世の中を生きていると、いろいろな物や事が便利になり、それだけ生活も快適になっていくのですから、良い事づくめのようにも感じます。

 ただ、ふとしたことで「便利」じゃなくなることもあります。自然災害はその最たる例です。「便利」が一瞬にして役に立たなくなるのです。その時、「便利」に頼り切っていたら、途方に暮れるだけです。

 ですから、便利の中に埋もれながらも、時には不自由さを味わったり、経験することも必要なことではあります。そこには生きる力を養う知恵が満ち溢れていて、便利を作り出すプロセスを垣間見ることもできるでしょう。つまり、不便で不自由なのに、豊かな経験を生み出すのです。 

不自由を経験し、もっと便利に!と思った子どものたちの中から、ロケットを飛ばす天才が生まれるかもしれません。

卒園生、卒園おめでとう。
在園生、進級おめでとう。
園長:新井 純

大きくひび割れたアスファルトを雪が覆い、その傷跡をわかりにくくしていきます。その横を車列がそろりそろりと進んでいくのですが、所々崩れてしまったためか、片側1車線ずつの道路は一方通行にされ、時々田んぼの中の細い迂回路に誘導され、雪で隠された段差があると車体が大きくバウンドしました。復路(帰るための一方通行)への分岐点は、峠が路面凍結でスリップしてしまうために大渋滞が発生し、それが分岐から溢れてきたため、往路も復路も動かなくなりました。「これはマズいな。これ以上進んだら、脱出に相当な時間が掛かって、下手すりゃ今夜は車中だね。まあ、止まってるのは嫌だから、進みましょうかね」そう言いながら、動かなくなった車列の横をすり抜けて前進します。分岐から伸びる反対車線の車列は数キロ続き、「こりゃ、ほんまに帰れんな」とつぶやきながら進みました。

 輪島市街地に入ると、景色は一気に大震災被災地の様相を呈します。倒壊した家屋、斜めに倒れたまま光る信号機、道路にまで崩れてきている店舗、崖崩れに巻き込まれたらしき新しい家屋もあります。横倒しになったビルは、テレビでよく映し出されたものだとすぐわかりました。

 そのビルのすぐ近くに、日本キリスト教団輪島教会がありました。2007年の能登半島地震の時に訪問した時は持ち堪えていましたが、今回は破壊されてしまいました。その壊れ方から、あの地震がエネルギーの凄まじさがわかりました。付近の家や商店もバタバタ倒れ、1ブロック先には爆撃でも受けたかのように焼け野原になった朝市がありました。雪のせいもあるのか、人の気配がなく、ボランティアか調査のためだろう何かを記録している人を見かけるくらいです。誰も声を発することなく、辺りも車内も、動いたらピキッと音がするかと思うほど空気は張り詰め、どこまでも透明でした。

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 被災地にある日本キリスト教保育所同盟の加盟園を問安する目的で能登半島地震被災地を訪れました。輪島に加盟園はありませんが、七尾を訪ねた際に「奥能登にも入れるからぜひ行ってみて」と言われ、結局輪島まで行くことになったのでした。

 地震には「通り道」のようなものがあり、震源から近いから被害が大きいとか、遠いから被害がないというわけではありません。断層や地盤など、様々な要因で被災状況は変わります。ご存知の方もおられるかと思いますが、通り1本挟んで片側の被害はひどく、反対側はほとんど被害がないということもあるくらいです。

 そういうことを含め、個々の被災状況はやはり現地を訪ねなければわかりません。マスコミはより画になるものや、悲劇、感動ものだけを拾い上げて報道するので、支援に必要な情報はなかなか入手できません。なので、教会関係や保育園関係では、こういう時に動ける人やグループが現地に入って、その情報を共有しています。

 これまで十以上の被災地を訪ねてきましたが、このたび改めて私たちの園の自然災害時の対応マニュアルの充実を図ろうと思い立ち、準備を始めました。これまで見聞きしたことを生かし、整理しておくことも必要だなと考えたからです。もっとも、無駄な努力になれば良いとも思いつつ。
園長:新井 純

新年おめでとうございます。新しい年も皆様の歩みの上に神様の恵みと祝福をお祈りします。

 愛媛県でこども食堂の活動をしている牧師仲間がいます。教会の中で、地域のために何かできることはないかと長年話し合いを続け、こども食堂を行うことになりました。初めて開催する日はドキドキしたそうですが、意外や意外、準備した50食が完売しました。その後は、毎月1回開店し、毎回大賑わいしています。

 ところが、こども食堂をやってみて新たにわかったことがありました。それは、経済的に厳しい状況に置かれたり、居場所を求めている親子が思いのほか多いということでした。そしてその多くがシングルさんと呼ばれる母子家庭、父子家庭でした。そこで、こども食堂が評判になったこともあり、たくさんの食料品の寄付が集まるようになったので、期限切れ間近の食品等を配るフードパントリーの活動も始めました。こちらは週に3日くらい配るそうですが、毎回盛況だそうです。

 日本の子どもの貧困率は1/6とも言われます。「え?そんなに?」と思う数字ですが、こども食堂のお話を伺っていると、あながち間違ってはいないようです。一般的な生活レベルよりも著しく低い経済状況の中で、何とか踏ん張っているという家庭がそんなにあるなら、私たちの周り、あるいはすぐ隣にもそうした家庭があると考えねばなりません。しかも、その中には明日食べる物がないというくらい極度の貧困に苦しんでいる家庭さえあるというのです。

 ある日の夕方、こども食堂をしている教会に、こども食堂に行きたいと問い合わせがありました。食堂は月に1回だから今日は営業していないこと、でも食べるものを分けてあげることはできるから、取りに来ると良いですよ、と教えてあげました。すると電話の相手は「じゃあ持って来てください。そっちに行く電車賃がないんです。」とのこと。そこで、車で隣町のそのお宅に食料を届けに行きました。

 到着すると、周りと違いその家だけは真っ暗。玄関を開けると、中からお母さんと二人のお子さんが出て来ました。電気は止められていました。部屋の中を覗くと、ストーブも無ければお布団もありません。段ボールにくるまって暖を取っているというではありませんか。

 牧師は慌てて教会に戻り、ストーブとお布団、そして何着かの防寒着などを持って再度その家を訪れたのでした。

 「助けて」そのひと言を発するのは、案外難しいのかもしれません。仕事を含め日常生活の中で、ちょっと忙しいから助けて、とか、一人では無理だから助けて、という声をあげることも、人によって難しく感じることがあるくらいです。まして、生活に困窮しているから助けて、という声を今の日本では上げづらいのかもしれません。

でも、事情は何であれ、状況がどうあれ、必要な時には「助けて」と声を上げられ、その声を聞いた人の中から、ちゃんと助け手を差し伸べる人が現れる、そんな社会であって欲しいと思いますし、私自身がその一員でありたいとの思いを新たにしました。 
 園長:新井 純

イエスさまがお生まれになった時、東方からやってきた占星術の学者たちがエルサレムを訪ね、王宮でヘロデ王に「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか?」と尋ねました。でも、そんな話、誰も聞いたことがありません。なぜなら、イエスさまは王様として生まれたわけではなく、庶民的な何でも屋さんのような大工さん夫婦のもとに生まれたからです。

 もちろんヘロデ王にとっても「はて?なんのことやら?」という出来事です。自分こそが王であり、自分の子どもが王位を継承するはずです。なのに、突然「王として生まれた者がいるらしい」と言われても戸惑うばかりです。

 でも、戸惑ってばかりもいられません。この報せをもたらしたのは占星術の学者ですから、未来のことを預言しているとしたら、自分や子どもたちの地位が危ういということを意味します。安穏としていたら、王座を追われてしまうかもしれません。ヘロデ王は東方の博士たちに「見つけたら知らせて欲しい。私も拝みに行こう」と伝えました。ところが、博士たちはイエスさまを見つけて拝んだ後、夢の中で「ヘロデのところには行くな」とお告げがあったので、帰りは別の道を通って帰って行きました。

 博士たちが報告に来ないと気づいたヘロデ王は、お抱えの学者たちに命じて、救い主がどこで生まれることになっているかを古い言い伝えなどで調べさせました。すると、それがユダヤのベツレヘムという村であることがわかりました。しかし、赤ん坊を特定することはできません。そこでヘロデ王は、ベツレヘムとその周辺にいた2歳以下の男の子を皆殺しにするという暴挙に出たのです。

 イエスさま大ピンチ! しかし、惨劇の前夜にイエスさまの父ヨセフに夢のお告げがあり、その夜のうちに両親はイエスさまを連れてエジプトに逃げて行き、難を逃れたのでした。

 権力を持つ者が、その力の使い方を誤るとこんなに恐ろしいことが起こるのです。そして冷静さを失うということは、どんなに愚かなことかということもわかります。私たちの生きる世界には、理不尽なことも少なくなく、善いもの、善いことばかりで構成されているわけではありません。戦争や紛争も後を断ちません。そんな荒波の中に、やがて子どもたちも出帆していかなければならないのです。

 でも、だからこそ、せめて私たちの子どもたちには、善いものを見つめ、善いことの実現を志す人生を歩んで欲しいと願っています。神さまからの愛と恵みは、自分のためだけでなく、みんなで分かち合うためにいただいているからです。そのことを味わい知るクリスマスにしたいと思います。
 園長:新井純

先日、世光福祉会の障がい者施設ベテスダの家の利用者のお父さんが天に召されました。教会でお葬式をすることになったので、その方がどのような人生を歩んで来られたのか、ご遺族からお話をお聞きしました(※教会で葬儀をする場合、牧師は式の説教で故人の人生を振り返りながら聖書のお話やキリスト教の死生観を語るため、ご遺族に取材をします)。

子どもが成長するにつれ発達の遅れが目立つようになり、やがて重度の障がい児であることがわかりました。親戚がお母さんを責めました、「こんな子を産んだのはあなたのせいだ」そして、お父さんに言います。「早く離婚して新しい家庭を作った方が良い」お母さんは、これが世間一般の考え方だと思い込み、なるべく子どもを家に閉じ込めておこうと思いました。その方が自分も傷つかないし、子どもを守ることにもなるのだと考えたからです。

しかし、お父さんは違いました。お父さんはこの事実をあっさり受け入れ、その上で我が子に最善を尽くそうと考えたのです。仕事から帰ってくると、毎日のように自転車に子どもを乗せて、あちこちお出かけをしました。夕方のひと時ですから、30分〜1時間程度のことだったと思うのですが、その様子をご近所の方は、とても微笑ましく見ていたのでした。

 そして、お父さんは言われのなき偏見で妻を責める親戚との関係を断ち切ったのです。
 
ご遺族からお父さんの人生をお聞きし、本当の愛を知っていた方なのだと心から思いました。家族を大事にするのは当たり前のように思われるかもしれませんが、人間はそこまで強いものとは限りません。正しい認識と冷静な判断、何よりも自分だけでなく隣人のことにも思いを馳せることのできる想像力がなければ、「当たり前のこと」を行うことはできません。まして、今回のケースで言えば、現在以上に障がい児への差別や偏見が激しかった時代のことです。障がい児を抱えて生きていくことは、辛い思いや悔しい思いの繰り返しだったことは想像に難くありません。それでも、共に生きることを喜びとして表現することで、そうした差別や偏見を覆し、かけがえのない一つの命を大切にすることの尊さを多くの人に分かち合っていくことができたのではないかと想像しました。

 隣県の某市長が「子どもの不登校は親の責任だ」などという発言をしたとのニュースで聞き、憤りを禁じ得ませんでした。じゃあ、いじめの問題はどうなの?不適切な指導をする不適格な教師の問題はどうするの? ツッコミどころが多すぎます。フリースクールが国の根幹を揺るがす問題だなんてことも言ったそうですが、ちゃんちゃらおかしい。この市長、発言に対する抗議が想像を超えたからでしょう、謝罪をしましたが、「誤解を与えるような発言をした」などと言い、全く反省なく誤魔化しました。思い込みの偏見で発言し、無知であることを自覚もできず、誤った認識による発言を撤回できないような人が政治家に選ばれることこそ、国の根幹を揺るがす大問題です。

私たちは、自分のことだけでなく、家族を含め周りを取り囲むたくさんのかけがえのない命に、もっと心を配るべきなのだと、改めて思います。特に、大人に頼るしかない子どもの命に、心を込めて向き合いたいと思いました。
園長:新井純

8月に日本列島を襲った台風の影響で、京都府北部も豪雨によって被災しました。福知山市では社会福祉協議会がボランティアセンターを開設し、小規模ながら災害ボランティアの募集と派遣を行なったようです。

それらが終わり、平静を取り戻したかに思えた9月初め、教会関係者から「ボランティアがやりきれなかった土砂除去の集中作業のために人を集めて欲しい」と依頼があり、取り急ぎ関係者数名で現地を訪れました。

現場は、福知山市の由良川沿いの山間部の集落で、小さな谷間の斜面で土砂崩れが発生、それが谷の沢で土石流となって下の農家を襲いました。幸い、山側の庭木が防壁のような形になったため、大木などが家屋を直撃するのを防ぎ、母家に甚大な被害をもたらすことはありませんでしたが、細めの流木や竹、拳程度の大きさの石を含む大量の山土が敷地内を埋め尽くし、母家の床下にも入り込んでいました。

家屋の周りや庭は、重機を入れなければならないと思われました。言い方を換えれば、重機を入れればある程度解決しそうでした。問題は、母家の床下です。床下に流れ込んだ木の根っこや石を含んだ汚泥は、風通しが悪いために乾かず、ドブ川のような異臭を放ち始めていました。このままだと湿気で居室にカビが生えたり、異臭によって住宅として機能しなくなります。従って、速やかに汚泥を除去しなければならないのは明白でしたが、床下は人力でやるしかありません。

急ぎ、仲間内でボランティアを募集し、翌週2日間の汚泥除去作戦を決行しました。

2日間で、延べ30名近くの協力を得て、床下の汚泥除去作業が行われました。畳の部屋は畳を上げて床板を外し、そこから泥をすくい出します。板床の部分は、床下に潜り込んで園芸用スコップで少しずつ泥をかき出します。私は床下に潜るチームを担当しましたが、「よし、誰が入る?」と声をかけても、皆が顔を見合わせるだけなので、まずは私自身が突入することになりました。もちろん、私が入れば皆は後に続くので、その後は皆が興味とやる気を持って、普段入ることなどないはずの床下に潜り込んで、泥かきに精を出しました。全身泥だらけですが、頑張った!と胸を張るみんなの顔は輝いて見えました。

 私には災害ボランティアをやるようになったきっかけがあります。2004年、当時暮らしていた新潟で水害が起こり、ボランティア受け入れの手伝いをしました。その時、先輩牧師がこう言ったのです。「私は、隣を通り過ぎない者でありたかった」これは、善いサマリア人という聖書のたとえ話に由来します。強盗に襲われ瀕死の重傷を負った旅人の横を、神殿に仕える祭司やレビ人が見て見ぬふりをして通り過ぎて行きます。でも、普段敵対しているサマリア人は、その人を見つけるなり、手当をし、安全な宿屋に運び込んで介抱したのです。さらに、宿屋の主人にお金を渡し、介抱を託しました。イエス様はおっしゃいました。「誰がこの人の隣人になったと思うか?」

 誰もが、どうすれば良いのかを知っています。ただ、さまざまな事情でその一歩を踏み出せないのです。でも、日常の小さな親切なら誰にでもできます。そういう小さな親切を行う姿を見せながら、助け合う心の大切さを子どもたちに伝えられる大人になりたいものです。 
園長:新井 純

それにしても暑い夏でした。いや、まだ続いてますね。1日も早く収まって欲しい猛暑です。

夏は様々な経験ができ、子どもたちもグッと成長すると言われています。経験は知恵や力の基となり、生きるための引き出しを増やします。全ての経験が実りをもたらすわけではありませんが、それでも実際に経験したことで身に付くものは厚みが違います。大人にとっては、子どもがいるために出来ないこともあってもどかしいと思うこともあるかもしれませんが、見方を換えれば今子どもと過ごす時間は今しかありませんから、存分に味わい尽くしてください。

先日、コロナ禍で中止されてきたために4年ぶりの開催となった、日本キリスト教保育所同盟の夏季保育大学という研修に参加いたしました。「当たり前はアタリマエ?」というテーマのもと、アイヌ民族のことや、精神障がい者が病院や施設に隔離されるのではなく社会の中で生きていくためにはどうしたら良いのか、その支援をしている「浦河べてるの家」の当事者研究という手法について学んでまいりました。

私たちには、知っていそうで知らないことや、気づいていないまま流してしまっていることがたくさんあります。また、自分の感覚を正しいと思い込み、それが常識だと思っていることが多いのですが、それが他の人と違うということや、確かに自分の常識が多くの人と同じだとしても、それとは違う考え方をしている人たちが少なからずいるという場面に出くわすことがあるものです。その時、あくまでも自分が信じてきた(思い込んできた)事柄や考え方が正しいという立場を崩さないのか、あるいは、知らなかった!という新しい気づきを与えられたという視点に立つのかでは、その後の在り様に大きな違いを生み出します。

 例えば、50年前札幌冬季オリンピックが開催された際、NHKのアナウンサーは日本と世界に北海道を紹介するために「無人の大地を切り開いてきた」と語ったそうです。なるほど、確かにそういう苦労のもとで開拓してきたんだな、と感心する方も多いかと思いますが、先住民族であるアイヌの人々にとっては、自分たちが暮らして来た大地に大和から乗り込んできた大和民族が、自分たちの生活や文化を破壊しながら開拓を続け、我が物顔で振る舞いつつアイヌを蔑み、排斥していったという苦々しい思いがあります。何が「無人の大地」かと。言葉のあやではすみません。自分たちの存在が、「無」とされたのですから。でも、教科書では「蝦夷征伐(えぞせいばつ)」と記され、あたかも北海道を制圧したことは良いことのようにさえ教えられたのです。

 こういう時は、逆の立場に立って想像してみるのが一番です。もし私が突如平安な日々を奪われ、強引に他の文化や価値観を押し付けられたらどう感じるだろうか? これが私たちの国の中でも起こったのです。私たち自身が考える「当たり前」は、別に人にとってはそうじゃないということがあるのだと、改めて心に刻みました。

 ところで、研修初日、札幌市は観測史上最高気温を記録し、その後これまた史上初の3日連続猛暑日を記録しました。もともと涼しい場所柄、冷房普及率は低く、研修会場はサウナと化しました。期待したのは「涼」だったのですが、それもまた当たり前ではなかったようです。
園長:新井 純

園医である「もり小児科クリニック」の森先生から、今年も絵本のプレゼントが届きました。

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森先生は毎年クリスマスに絵本を贈ってくださいます。しかも、乳児から幼児までが楽しめるように、幅広い対象年齢に対応すべくたくさんの絵本をお選びくださいます。
絵本は子どもたちの心や発想力などを豊かに育みます。感謝して子どもたちと楽しみたいと思います。

森先生、ありがとうございました!

園長   新井純
26年前、広島の教会に赴任しました。旧広島空港があった広島飛行場の近くの住宅地にある教会で、原爆ドームまで自転車で20分くらいのところでした。

広島市は太田川という大きな川が市街地上流部で5本に分かれて広島湾に注ぐ、その中洲に造られた街です。河口の中洲ですから海抜は低く、またベースが 砂泥地なので地下街や地下鉄を造るのが難しく、今も市内には路面電車が走っています。確か、かつて京都市内を走っていた路面電車の車両も走っていたはずですが、同時にヨーロッパから輸入された近代的な「グリーンムーバー」と呼ばれるカッコ良い電車も走っており、「鉄ちゃん」にはたまらない街かもしれません。

 この路面電車の1本は、広島湾に面した宇品港に向かって伸びています。四国や瀬戸内の島々を結ぶフェリーが頻繁に出入りする港ですが、瀬戸内の島々に守られた湾奥に位置していたため、かつては旧日本海軍の重要な軍港として用いられていました。実にこの路面電車は、軍港に人や物資を運ぶために敷設されたものだったのです。

 1894年には、日清戦争を前に広島城跡に大本営が置かれました。大本営とは、戦争の指揮を取る本部のようなものです。翌年日清戦争が終結し、大本営は京都へ移っていきますが、その後も軍港を抱える広島は、戦争の際に重要な役割を担っていきます。

 宇品港を少し南下したところには呉市があります。あの有名な戦艦大和が建造された母港です。戦艦大和は当時世界最大級の戦艦として太平洋戦争が始まる前に就役し、敗戦直前、沖縄に特攻し轟沈しました。呉市にある通称大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)には、大和の建造から戦争時の役割に至るまで細かな展示がされていて、当時の人々が大和にどれだけ大きな期待をかけていたのかがわかります。

 そのような軍事的に重要な場所であった広島界隈ですから、戦争になればターゲットにならないはずがありません。しかし、東京や大阪でさえ大空襲を受けたのに、広島をはじめいくつかの地方都市は大きなダメージを受けないでいました。それは、原爆の成果を測るためだったと言われます。実際、原爆の投下対象となっていた地方都市は11ほどあったと言われ、いずれも大きな空襲を受けていないと言います。投下当日も九州の小倉ほかいくつかのターゲットがあり、その中から当日天候の良かった広島に確定したとされています。

 広島在任中は、被曝された方や被曝二世と呼ばれる方々に多く出会いました。そして証言を聞くのですが、教会員だった児玉さんという年配女性の被曝体験は、何度も何度も繰り返し聞かされているうちに、私自身がそれを体験したのではないかと勘違いするほどこの身に刷り込まれていきました。話を聞くたびに触らされた彼女の腕の中に残されていたガラス片の感触は、今も確かに指先に残っています。

 世光保育園は、8月初めに「平和を考える集い」を行い、子どもたちと一緒に平和の大切さを考えます。同時に、争うことの愚かさを学びます。そして、年長児には私が児玉さんから聞いた被曝体験を語り聞かせます。切ない体験を共有することで、命こそ宝であるという思いを、お互いに心に刻みたいと思っています。
  園長:新井 純


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