5年前、バングラデシュの田舎の村で、就学前の子どもたちに読み書きや生活習慣を指導しているプレスクールの先生たちと意見交換をしていた時のことです。夢はありますかとの私の問いに、高校を出るか出ないかくらいのひとりの凛とした女性教師が「将来は警察官になりたい」と答えました。

 彼女は母子家庭で、学校に通うお金を稼ぐために現地NGOのプレスクールの先生としてアルバイトをしていました。月収は1,500円。十分な金額ではありませんが、大人の労働者の平均月収が7,000〜1万円であることを思えば、高校生のバイトとしては破格の条件ではあります。だから、彼女にとってプレスクールの教師として選ばれたのはとても運が良いことと同時に、将来を期待されるほどの人材であったとも思われます。

 しかし、警察官になるのは彼女にとって極めて難しいことでした。なぜなら、警察官の試験に合格するためには「賄賂(わいろ)」が必要だからです。私たちの常識で考えるなら信じられないことではありますが、公務員として高額な給与が保証されるだけに、発展途上の彼の地ではそのようなことがまかり通ってしまうのです。

そんな、かつてはアジア最貧国とまで呼ばれたバングラデシュに、4年ぶりに行ってまいりました。日本キリスト教保育所同盟が支援しているプレスクールの視察と、より有効な支援のための現地NGOとの協議、そして子どもたちやスタッフとの交流を目的とした旅です。これまでに世光保育園の保育士も、2名が現地を訪れています。今回は次年度以降の保育士たちのための現地研修の可否判断やルート検討なども兼ねていました。

インドの東隣にあるバングラデシュは、農業と繊維産業が盛んで、近年は日本をはじめとする諸外国のアパレル企業が進出しているために、急速に近代化が進んでいると言われています。試しにユニクロの製品をお持ちなら、製品タグを確認してみてください。Made in Bangladeshと書いてあるものが案外多いですよ。

近代化していると言われてみれば、確かに首都ダッカと地方都市を結ぶ道路の整備や、鉄道の整備は急速に進んでいるように感じました。まだ開業はしていませんが、日本企業が参加している鉄道整備事業で「自動改札」が導入されるとか。客車の屋根に人が群がるバングラの列車を知っている身としては、果たして自動改札が意味をなすのか大いに疑問ではあります。それでも、海外の支援に頼り切っていたバングラデシュ人が、「自分たちの税金で大きな橋をかけた」と胸を張って話しているのを聞くと、こちらまで嬉しい気持ちになるのでした。

村を訪れると、警察官になりたいという夢を持っていた先生の子どもを紹介されました。2歳くらいでしょうか、人見知りしない男の子で、私に抱かれてもニコニコしていました。でも、お母さんには会えませんでした。出産時のトラブルで命を落としてしまったのだそうです。新生児〜2歳児までの死亡率が高い国のことですし、日本だったら助かっただろうかなどと色々思い巡らせました。私たちを歓迎しつつも、娘のことを話した後涙ぐむおばあちゃんを見ていたら、かけがえのない命を生きるということは、ただそれだけで尊いことなのだと思い知らされました。バングラデシュでも、もちろん日本でも。
園長:新井 純

某金融会社の「始めたいこと、始めようプロジェクト」という広告を見て、面白そうだなと思い応募してみました。数ヶ月後、応募していたことも忘れていたのですが、書類審査に通ったので面接を受けて欲しいとの連絡があり、オンライン面接を受けることになりました。

よくよく聞くと、最終的なチャレンジをするまでの過程を、日常生活まで含めて撮影をする、いわゆる密着型のドキュメンタリーになるそうで、Web広告に使われるくらいだろうと軽く考えていた私は、腰がひけてきました。なのに、面接後にこれまた色々と写真を送って欲しいと連絡が来て、ますますビビり始めました。だから、最終選考で競り負けたと連絡が来た時は、正直ホッと胸を撫で下ろしたのでした。

自分で言うのも何ですが、子どもの頃から好奇心は旺盛で、スイッチが入ると後先考えずとりあえず突っ込んで行く傾向があります。それで失敗したり、恥をかいたり、後悔したりということも少なくありません。それでも、私の親は私がしたいと思ったことに挑戦させてくれましたし、たとえ三日坊主で終わっても叱られるということはありませんでした。

保育に携わるようになり、保育を学び始めて気づいたのは、「興味を持った時が教えどき」だということです。自分自身を振り返ってみるとよくわかるのですが、興味を持っていることには熱心に取り組むし、そこで学んだことはよく吸収します。しかし、誰かに「させられたこと」は、なかなか覚えませんし、その時間は苦痛です。

そうなると、興味を持った時にそれを学べる、あるいは実行できる環境が整えられるというのは、実に幸せなことです。もちろん、前述の私が経験してきたことのように、全てが続くわけでもないし、身になるわけでもありません。特に、子どもの興味は移り変わりやすいですから、むしろ続くと期待してはいけないのかもしれません。

たとえば、絵本を読んでいると、いつかのタイミングで字に興味を持つようになります。4〜5歳くらいでしょうか、「これなんて読むの?」と聞かれるようになったら、まさにその時が教えどきとでも言いましょうか。もっと早い段階で字を教えようと思って、イラスト付きのアイウエオ表を使ったりすれば、確かに覚えるのです。でも、それが後の学習能力に著しく有利になるかと言えば、そんなことはありません。「小さいのに、もう字が読めるの!」って喜ぶのは大人だけです。はい、長男でそんなことをしていたのは私です。

でも、次男の時はやめました。そんなことより、色々なことに興味を持つための工夫をした方が、面白いことを始めるのではないかと気づいたからです。「トトロを探しに森に行こう!」とか「サンショウウオを育てよう!」とか「(雪国だったので)白うさぎの足跡を見つけよう!」とか「朝ごはんを作ろう!」とか。「それは、全部あなたがしたいことなんでしょ?」と妻には言われそうですが、まあいいじゃないですか、パパが楽しそうにしていることを一緒にできるのですから。

子どものしたいことを全て整えられるわけではないし、今それが必要かどうかも吟味する必要はあります。その上で、大人がさせたいと思うことではなく、子どもが興味を持ったことを深めることができたら、それは確実にその子の力にはなるということです。 

園長:新井 純

昨年11月末、ドイツを訪れました。ケルンでドイツ語を学びながらブリュッセル(ベルギー)の教会で宣教師として働く後輩牧師がいたのですが、その働きを支える支援会の責任を私が担っていたので、一度様子を確認し、励まそうということになったのです。戦争によってロシア上空を飛べないために、北極の上空を飛ぶロングフライトは13時間以上でした。ただ、北極を越える時、小さいながらも機窓からオーロラを見ることができたのはラッキーでした。

フランクフルト空港に到着し、ICEという特急列車でケルンまで小一時間、ケルン中央駅を降りて外に出ると、世界遺産のケルン大聖堂が目の前にドーンとそびえ立って出迎えてくれました。私にとっては初ドイツ、初ヨーロッパ。テレビや写真など、映像でしか見たことがない景色が目の前に広がり、見るもの、聴く音、匂い、気温、風など、異国の地に立っていることを感じながら、あらゆる感覚を覚醒させていきました。

クリスマスの準備を始めるアドベントに入ろうかという時期だったので、各地でクリスマスマーケットが開かれていました。クリスマスにちなんだグッズや食べ物屋さんなど、何十軒もの屋台が並ぶお祭り広場的なものです。クリスマスの飾り付けをするためのデコレーショングッズがたくさん並んでいるのを見て、日本のクリスマスマーケットももっと充実して欲しいなと思ったのでした。

数日かけてケルン近郊やブリュッセルを訪れた後、バルセロナ(スペイン)に飛びました。「バルセロナ日本語で聖書を読む会」という日本人クリスチャンの集会があり、時々オンラインで参加していましたが、せっかくならバルセロナまで足を伸ばし、対面で聖書のお話をして欲しいと招かれたのでした。これが忘れ得ぬ体験になったのです。なぜなら、集会の会場が世界遺産でもあるサグラダ・ファミリア教会だったからです。

観光客が見学できる大聖堂の一角から地下に降りると、250人以上が入れる立派な地下聖堂があります。集会はここで行われました。参加者はわずか10名強でしたが、ガウディが設計した説教台の前に立って聖書のお話をさせていただいた機会は、今思い出しても震えるほどレアな体験でした。

人生には予期せぬ様々なイベントが発生するものです。良いものばかりでなく、望まないイベントの発生も避けられません。でも、私たちは与えられた命を生きるほかありません。だとしたら、せっかくなら楽しんだり、納得して受け入れるなりして、前向きな気持ちでありたいと思います。その方が気持ちが豊かになりますから。

そうそう、ドイツ&ベルギーに派遣された後輩牧師は、言葉も習慣も全くわからない異国での生活に緊張しっぱなしだったようで、私たちの訪問をとても喜んでくれました。滞在中行動を共にしながら、彼の地での体験をあれこれ聞く中で、やはり、旅をはじめ、様々なチャレンジは人間を成長させるんだなと、自らの体験をも振り返りながら思うのでした。子どもたちはもちろん、大人もまだまだ成長できますよ!

園長:新井 純

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※サグラダファミリア教会での礼拝の様子です。
YouTube内「よろちゅーぶ」で検索してもご覧いただけます。

アントニ・ガウディという建築士をご存知でしょうか。独特に色彩感覚を持った人であるということ、スペインのサグラダ・ファミリア(聖家族教会)の設計者と言えば、その名前を思い起こすことができるかもしれません。

 ガウディについて、そんなに興味を持っていたわけではありません。前述したサグラダ・ファミリアの設計士という程度の知識しかありませんでした。しかし、彼がどのようにして設計をしていたかを知った時、大きな衝撃を受けました。彼は、自然な曲線美を作るために、「逆さ吊り模型」というものを考案していたのです。

 逆さ吊り模型というのは、例えば板に細いチェーンのようなものの両端を取り付けます。それを長短合わせて何本も取り付けたとします。板の上でチェーンはグチャッと無造作に置いてあるように見えます。でも、板をひっくり返すと、チェーンは下に垂れ下がって大小様々なU字(V字?)状を作り上げます。これの下に鏡を置くと、あら不思議!鏡には綺麗な逆U字(逆V字?)状の鎖の弧が、まるで立っているように写し出されるではありませんか。重力によって垂れ下がった鎖によって作られた自然なカーブを、鏡に映すことであたかも立ち上がっているもののように見るという手法、これが逆さ吊り模型です。「て、て、天才や・・・」と、俄然ガウディに興味を持ったのでした。

 彼が設計した丘の上にあるグエル公園というところには、土と石のようなもので天井と柱が造られた回廊がありました。人工物なのに、樹の根っこで天井を支えているかのように見えました。実にガウディは、神様が創られた自然の美しさを設計に取り入れ、逆さ吊り模型を使った曲線美も、自然の美しさを模倣するためだったのです。

 あの有名なサグラダ・ファミリアを見学した時には、そのほとんど全てが自然美からインスピレーションを受けたデザインであることがわかりました。大聖堂は森の中にいるような錯覚を覚え、塔に登って降りる時に使う螺旋階段は、上から見下ろすとアンモナイトのように見えました。

 それらを見て、おそらくそれまで建築の常識とされてきたことに捉われず、自由な発想で設計をしたからこそ、唯一無二の建築士になれたのだということは、容易に想像できました。もちろん、最初から認められていたわけではなく、彼が建築を学んだ学校の校長は「狂人なのか天才なのかは、時が明らかにする」と語っていたそうです。

 子どもたちの成長を見守る中で、周りの子と同じように育って欲しいとか、同じような感覚を身につけて欲しいと願う大人は多くいます。それは当然だと思いますし、私もその一人です。何でもかんでも個性的であることが推奨されるものでもありません。社会は協調性を求めているのです。

 一方で、それゆえに個性的であることが否定されてはならないとも思います。個性は神様からの賜物であって、程度の差こそあれ、全員がその賜物を得ているのです。その賜物の違いが、社会を豊かなものにしてきたのです。だから、個性は潰されてはならないのです。

矛盾に聞こえますか?いえ、能力を発揮する場面では、個性的であることは認められるべきだと考えているのです。  
園長:新井 純

新年おめでとうございます。コロナ禍で迎える3回目のお正月でしたが、行動制限等がなかったことで、昨年より帰省や旅行がしやすかったようです。遠くにいるおじいちゃんおばあちゃんに会いに行った子どもたちもいたことでしょう。12月から再び感染が拡大し、園でも何人もの感染者報告がありましたが、早く治療薬が作られ、この禍が過ぎ去って欲しいと願う日々です。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
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ナスルディンという男が、自宅前の庭の芝生に這いつくばって何かを探しています。通りかかった友人が尋ねました、「何を探しているんだい?」すると「鍵だよ」とナスルディンが答えました。鍵を無くしたのなら、さぞ困っていることだろうと、友人は一緒に探すことにしました。

 ところが、いくら探しても見つかりません。さほど大きな庭でもないので、何度も同じところを繰り返し探しましたし、二人がかりなら見つかっても良いはずです。そこで友人が「どのあたりで無くしたか、心当たりはあるかい?」と聞くと、ナスルディンは「家の中だよ」と答えました。

 「はあ?家の中で無くしたのに、なぜ庭で探しているんだ!」友人が呆れて問うと、ナスルディンは言うのです、「だって、家の中より外の方が明るくて探しやすいじゃないか」

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 馬鹿な話だと思うでしょ。はい、本当、何をしたいんだか、と失笑するのですが、実は笑ってばかりもいられません。なぜなら、実は私たちも同じようなことをしているかもしれないからです。

 そんなはずはないって?いいえ、例えばこういうことです。困ったことが起きた時、トラブルに遭遇した時、その原因を見つけ出して解決しようとするわけですが、原因を解決しやすそうなところに見出そうとしてしまいがちではありませんか。言い方を換えるなら、自分に都合の良い解釈をしたり、理由づけをしようとし、本当の問題点を見つめようとしないということです。

 真の原因を見つめられなければ、問題は解決しません。原因は、例えば自分にあるかもしれないし、耳の痛い話や、自尊心を傷つけられることかもしれません。でも、原因がそこにあるなら、それを解決しなければなりません。全然違うところを見つめて、なんとかそこに原因らしきものを見出そうとし、それで問題に取り組んでいるように思うのは勘違いですし、時間と労力の浪費です。

 とは言っても、私たちはそういう無駄なことを繰り返すものですし、責任逃れだってしたくなるものです。いつでも、どんなことでも真っ直ぐ進めるものではないし、問題解決だって最短ルートでできるものではないのです。はい、それが人間なのです。

 大事なことは、回り道をしようが、無駄や遅延が生じようが、結果的に問題が解決するための努力を続けることでしょう。ナスルディンだって、探しやすい庭ばかりを探して見つけられなければ、最終的には鍵を見つけるために家の中を探し始めるでしょう。その決断に至るまでの無駄は、結果を見れば無駄ではなかったと言えるかもしれません。 
園長:新井 純

子どもの頃、サンタクロースが来るのが楽しみでした。プラレールの列車をもらったこととか、トミカのタワーパーキングをもらったことなどを覚えています。新聞におもちゃ屋の楽しそうな折込チラシを見つけたら、それを大事に取っておいて、毎日眺めてはどれをお願いしようかと悩むのも、この時期の楽しみだったように記憶しています。

 年長か小学1年生のクリスマスには、自転車をリクエストしました。今は子ども用自転車もシンプルなものがほとんどだと思いますが、50年前はライトや反射板を含め、装飾が施されたものが多くありました。TVの戦隊ヒーローもののバイクのようなものと言えばイメージできるでしょうか。ですから、その時は自転車屋の折込チラシから、カッコ良い補助輪付きの自転車を選び、これが欲しいとサンタクロースにリクエストしたのでした。どうやってリクエストしたかって?はい、パパに言うと、パパが代わりに伝えてくれると言うことでした。

 クリスマスを迎え、お祝いする食事を楽しんだ後にくつろいでいると、家のどこかで「ミシッ」という音が聴こえます。古い木造だったので、音なんてしょっちゅうしていたのに、この日ばかりはそれがサンタクロースがやって来た合図だと信じ、家中を探し始めます。すると、家のどこかの窓か扉が開いていて、そこにプレゼントが置いてあるのでした。

 自転車をリクエストした年、確かに自転車が贈られました。でも、それは悩みに悩んで選んだ自転車ではありませんでした。シールも付いてなければ装飾もない、シンプルなものだったのです。ガッカリしました。パパはちゃんと伝えてくれたの?カッコイイのが欲しいって言ったのに!

 「サンタさんはこっちの方がいいと思ったんじゃない?」そうか、そうなのか? 何だか納得できないけど、そうなのかも。結果、私は長くその自転車に乗り続けました。子どもっぽい装飾がされたものなら、やがて恥ずかしくなって乗れなくなっていたでしょう。でも、シンプルだったがゆえに、長く乗り続けられたのです。

 神様は、私たちの祈りを聴いていて下さいます。ただ、願いが叶うわけではありません。私たちの願いで神様を動かすことはできないのです。神様は私たちの祈りに耳を傾けつつ、私たちに本当に必要なものを備えてくださる方なのです。

 キリストの誕生もそうでした。人々が願うような救い主ではなく、人々の期待を裏切るような救い主でした。でも、それこそが本当に私たちに必要な救い主だったのです。 
 園長:新井 純

卒園生がカクレクマノミの飼育を始めたと教えてくれたのでビックリしました。ディズニーの「ファインディング・ニモ」の主人公として有名になった海水熱帯魚で、オレンジ色に太めの白いバンドが愛らしい魚です。自然界では、イソギンチャクの中に隠れることでも知られています。

 そんなカクレクマノミですが、飼育するのは簡単ではありません。以前、その子のお母さんから、飼育したいとせがまれているがどうだろうか、と相談を受けたことがあったので、小学生には海水魚飼育は難しいから、淡水の熱帯魚から始めてはどうか、とアドバイスしていました。

 金魚やメダカを飼育することはさほど難しくはありませんが、うまくいく人といかない人がいます。どこに違いがあるのかと言うと、環境が整ったかどうか、で差が出るのです。

 具体的に言うと、金魚やメダカなど観賞魚は水槽や金魚鉢で飼いますが、限られた水量の中に放り込まれます。その中で、魚は餌を食べ、糞尿をします。糞尿はアンモニアという有害物質なので、そのまま放っておけば魚はたちまち死んでしまいます。毒の中では生きられませんからね。

 そこに登場するのがバクテリアという微生物です。水槽に設置したフィルターや砂利などにバクテリアが付着します。このバクテリアの中に、アンモニアを餌とするものがいて、有害なアンモニアを、害の少ない亜硝酸という物質に変えてくれ、さらに、別のバクテリアが亜硝酸をより害の少ない硝酸塩に変えてくれます。このバクテリアをたくさん水槽内で繁殖させるために、フィルターと呼ばれる器具を設置するのです。

 実は、金魚やメダカも、熱帯魚も海水魚も、飼育の仕組みは同じです。ただ、海水ではバクテリアの繁殖スピードが遅く、さらに海は池や川のように一瞬で環境が変化することがほとんどないので、海水魚は環境の変化に極めて敏感です。つまり、体調を崩して病気になりやすいのです。逆に、金魚やメダカは、多少の変化は問題になりません。だから、金魚やメダカは飼いやすく、海水魚は難しいのです。

 この卒園生、毎日のように熱帯魚店に通い、店員さんからたくさん学んだそうです。そして、ついに親を説得し、ニモの飼育に成功しました。恐れ入りました。

 好きこそ物の上手なれ、という言葉があります。好きだからこそ熱心に学び、吸収も早いということを意味します。ですから、興味を持ったことに、興味を持った時に取り組める環境が整えられるのが理想です。タレントのさかなクンは、毎週末水族館に通わせてもらったと聞きました。ある時期はタコが好きになり、朝から閉館まで、ずっとタコの水槽の前にいてタコを観察していたそうです。お母さんはそれにずっと付き合っていたというのですから、感心するほかありません。それが理想だとわかっていても、さすがにそこまでは、と思ってしまいますよね。

それでも、学びのきっかけは好奇心ですから、その好奇心を抱くきっかけを増やし、学びの入り口に立たせることは比較的容易です。ですから、子どもたちが関心を示し、学ぼうとするきっかけ作りには、色々とチャレンジしていきたいと思うのでした。 
園長:新井純

ちょうど1年前に召天した父の遺骨を散骨するため、9月半ばすぎに長崎に行ってきました。折りしも最強レベルと言われた台風14号が九州や中国地方に襲来するタイミングだったため、予定していた飛行機が欠航、翌日の始発に振り替え、予定を短縮する強行軍となりました。

 散骨は、熊本県天草市と長崎県南島原市を結ぶフェリーの上から行いました。これを聞いて「九州のご出身?」と尋ねられることがありますが、父は群馬県の出身なので、全く違います。

少し歴史の復習をしましょう。キリスト教が伝来した1549年以降、キリスト教は一気に広まり、特に長崎では大名も信仰を持ち、地域ごとキリスト教徒なるという現象も起こりました。しかし、大名と庶民が信仰を介して仲良くし過ぎるのは、将軍にとっては反乱の危険が増すと思われて警戒しなければならないことでした。また、宣教師に紛れて人身売買をする連中が忍び込み、日本人を奴隷として連れ去るという事例もあったと言われています。さらには、急激に勢力を伸ばしてきたキリシタンを仏教界が警戒しました。そこで仏教界は将軍をそそのかし、豊臣秀吉はバテレン追放令を、江戸幕府は禁教令を発令したのです。

でも、「信仰を捨てろ」と言われて、「わかりました」という人はいません。大好きな人がいるのに「好きになってはいけません」と言われたからと言って、素直に聞き入れたり諦めたりできないのに似ています。ですから、たくさんの人たちが信仰を捨てずに処刑されたり、何よりも信仰を持っていることを隠して暮らすようになりました。

そのため、お墓もキリシタンだと気付かれないように工夫されました。人目につかない林の中に墓地を作るとか、墓石だとわからないように、自然石の裏にこっそり十字架を刻んだりしてお墓を隠しました。なので、墓石だと気付かず、現代ではそれを庭石にしたり、石垣に使ったりしていました。

それら潜伏キリシタンの墓石を古文書を頼りに探し出し、墓石を通してキリシタンを研究するというのが父のライフワークでした。そのため、父は思い入れのある彼の地に、自らの遺骨を散骨するよう言い残していたのです。

キリスト教では、目に見えるものではなく、目に見えないものを大切にするという教えがあります。目に見えるものはいずれ消え去るけれども、目に見えないものは永遠に続くというのです。確かに物質的なものは、やがて朽ち果てます。この地球でさえ、あと50億年もすれば消滅すると言われているくらいです。でも、親が子を思う愛などは、目には見えませんが、誰にも邪魔されることなく、永遠に残り続けます。たとえ肉体が滅んでしまっても、私たちの心は永遠だからです。

 私たちはつい見た目を気にしたり、対外的な面で見栄を張ってしまったりと、無駄なことに心を砕くことがありますが、実は本当に大切なものは、高価なものでも、きらびやかなものでもなく、ごくごくシンプルに、優しく、楽しく、穏やかだったり、爽やかだったりという、心地よい時間や関係性なのだということに気づきます。子どもたちとそうした時間を過ごすことは、子どもたちにとっても、私たち大人にとっても、必要で大切な時間なのだと改めて思うのでした。
園長:新井純

9月になろうというのに、園舎裏の林からはクマゼミやツクツクボウシの鳴き声が聞こえてきます。いつまで続くのでしょう。

8月の初め頃、通勤途中の街路樹の、しかもかなりの大木の下を通った時には、物凄い数のセミが驚くほど力一杯鳴いていました。シャオシャオシャオシャオシャオシャオシャオシャオシャオシャオシャオと、「これは騒音公害と言われるレベルだな」と妙に感心しながら、思わず苦笑してしまうほどでした。その後、海釣りに行った際、普段は沖に出るのですが、その時は船頭さんが岸近くに船を進め、やはり岬の森の中から、全力のセミの合唱がうるさいほど聞こえてきて、まさか海の上でここまでやかましいセミの声を聞くとは思わなかったと、これまた苦笑いするのでした。

セミの地上での寿命は1週間ほどと言われています。その間に子孫を残すのですが、そのパートナー探しをするために鳴くのだそうです。

 地上に出る期間が1週間ということで、「かわいそうだ」とする見方は、昔からされてきたと思われます。「セミは1週間しか生きられない。だから、一生懸命生きている」と。

 でも、それは違います。一般的なセミは地中で6〜7年ほど暮らしながら成長しています。その間は樹の根っこから養分を吸い取ります。それは決して不幸なことではないはずです。だって、蝉にとってはそれが当たり前だからです。なのに、地中での生活が幸せではないと考えるのは、人間の勝手な思いこみでしょう。ミミズだって、オケラだって、モグラだって、主に地中で生活している生物は、むしろ明るいところに出てくると、外敵に襲われたり、干からびたりして、ろくなことはないのです。もし人間が地中に留め置かれたら、それは不幸なことだと言っても反論はされないかと思いますが、地中で生きることを決めた生き物は、地中こそ居心地の良いところなのです。

 こうした勘違いや思い込みで、私たちは失敗します。自分の思い込みだけで、隣人が幸せか不幸かなんて、決められるはずがありません。

 最近、山中に小さな土地を買い、そこに自分で小屋を建てて暮らしている家族のことがテレビで紹介されていました。世間のさまざまなしがらみから解放されて、せかせかしない、なるべく自給自足のスローライフを楽しむ生き方を選択したということです。

思うに、昔の人たち、特に田舎暮らしの人たちは、特に選択をするつもりがなくてもスローライフでした。だから、自給自足や、いわゆる一般社会の中で仕事をしないで生活することは特別なことではなかったのですが、便利な世の中、スピード感のある社会生活にはめ込まれていると、スローライフは、時代に逆行するかのように受け取られるのかもしれません。確かに現金収入は少ないかもしれないし、多くの人が当たり前のように現金収入を得るために働く世の中では、そうした生き方は奇異の目で見られることさえあるでしょう。

でも、自分の人生なのですから、生き方はそれぞれが決めれば良いことです。周りがとやかく言うことではないし、好きか嫌いかは自分で決めれば良いのです。ピカソの絵が好きかどうかも、自分で決めるのです。   

 園長:新井純

観測史上最速で梅雨が終わったはずなのに、戻り梅雨って何やねん!と思わず突っ込みを入れたくなった園長です。正式な記録としては後から状況を分析して梅雨明けを決めるそうで、「あの時はまだ梅雨明けじゃなかった」ということもあるそうです。気象予報士はデータを分析して天気を予想するのが仕事であり、未来の天気を決めるわけではありません。あくまでも予報なのです。自然のことを人間の知恵で知り尽くすことなどできないことを考えれば、予報が外れたからと痛立つことも減ると思うのですがいかがでしょう。

 新型コロナの感染状況がすごいことになっています。ピークは8月上旬という説もありますが、ここに来て海外で「ケンタウルス」なる新株が登場したとの報道があります。きっともうしばらくすると日本でもデビューを果たし、大暴れし出すことでしょう。コロナ騒動の終焉が未だに見えない中、ニュース番組ではキャスターが医療関係者に「いつまで続きますか?」などと質問し、「いつまででしょうね。私も早く終わって欲しいと思っているのですが。」と答えるのを聞いて、笑ってしまいました。みんなこの先どうなるのかを知りたいと思うのですが、専門家でもわからないのです。ただ、みんなが疲弊しているだろうと想像すると、何とか見通しは立たないものかと、無駄な思案をするのです。

先日とある会議で出席者の一人が「原発再稼働や自衛隊の海外派兵に反対する意見もあるが、そんなことを言ってる場合ではない。北方四島からロシアが北海道に攻めてくるかもしれないし、天然ガスの輸入がなくなるかもしれないのだから。」

いかにも現実的で、率直な意見なのだと思いましたし、それが今の世論の多数派なのだと思いました。同時に、仮想敵国が北朝鮮や中国から、ロシアに変わっていることにも注目しました。プロパガンダが見事に成功しているということです。

確かにその可能性を否定することは出来ないし、万が一に備えておかねばならないと考えるのは、現在の世界情勢を考慮すれば、現実的な判断ということになるでしょう。
でも、だからこそ手を挙げて発言しておきます。「原発事故であなたの現在の生活や故郷がそっくり失われて補償も受けられないことになっても文句を言わない覚悟はできていますか?軍備増強や平和憲法の放棄に賛成し、日本が外国での戦争にも参加するようになったら、そのつけは子どもたちの命で払うことになるということを知りつつ、その覚悟がありますか?」

状況が変われば、それに対応して変化することは必要です。世の中の情勢に合わせて、自分も周囲も変わっていく方が良いものもあるでしょう。新型コロナの対応などまさにそうで、初めはわからなかったことがわかってきて、度重なる新株の登場で、感染防止策も変わってきました。何を一番大事にするか、その考え方も変わりました。何事につけ変化は必要なのです。

しかし、変わらず守り続けるべきものもあると信じます。それは一人ひとりの命の価値、尊厳です。自分の命や家族の命はもちろん、みんなの命と尊厳が守られねばなりません。そのために作られ、今日まで守られてきた憲法という防波堤を、簡単に崩したくはないのです。
園長:新井純


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