26年前、広島の教会に赴任しました。旧広島空港があった広島飛行場の近くの住宅地にある教会で、原爆ドームまで自転車で20分くらいのところでした。

広島市は太田川という大きな川が市街地上流部で5本に分かれて広島湾に注ぐ、その中洲に造られた街です。河口の中洲ですから海抜は低く、またベースが 砂泥地なので地下街や地下鉄を造るのが難しく、今も市内には路面電車が走っています。確か、かつて京都市内を走っていた路面電車の車両も走っていたはずですが、同時にヨーロッパから輸入された近代的な「グリーンムーバー」と呼ばれるカッコ良い電車も走っており、「鉄ちゃん」にはたまらない街かもしれません。

 この路面電車の1本は、広島湾に面した宇品港に向かって伸びています。四国や瀬戸内の島々を結ぶフェリーが頻繁に出入りする港ですが、瀬戸内の島々に守られた湾奥に位置していたため、かつては旧日本海軍の重要な軍港として用いられていました。実にこの路面電車は、軍港に人や物資を運ぶために敷設されたものだったのです。

 1894年には、日清戦争を前に広島城跡に大本営が置かれました。大本営とは、戦争の指揮を取る本部のようなものです。翌年日清戦争が終結し、大本営は京都へ移っていきますが、その後も軍港を抱える広島は、戦争の際に重要な役割を担っていきます。

 宇品港を少し南下したところには呉市があります。あの有名な戦艦大和が建造された母港です。戦艦大和は当時世界最大級の戦艦として太平洋戦争が始まる前に就役し、敗戦直前、沖縄に特攻し轟沈しました。呉市にある通称大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)には、大和の建造から戦争時の役割に至るまで細かな展示がされていて、当時の人々が大和にどれだけ大きな期待をかけていたのかがわかります。

 そのような軍事的に重要な場所であった広島界隈ですから、戦争になればターゲットにならないはずがありません。しかし、東京や大阪でさえ大空襲を受けたのに、広島をはじめいくつかの地方都市は大きなダメージを受けないでいました。それは、原爆の成果を測るためだったと言われます。実際、原爆の投下対象となっていた地方都市は11ほどあったと言われ、いずれも大きな空襲を受けていないと言います。投下当日も九州の小倉ほかいくつかのターゲットがあり、その中から当日天候の良かった広島に確定したとされています。

 広島在任中は、被曝された方や被曝二世と呼ばれる方々に多く出会いました。そして証言を聞くのですが、教会員だった児玉さんという年配女性の被曝体験は、何度も何度も繰り返し聞かされているうちに、私自身がそれを体験したのではないかと勘違いするほどこの身に刷り込まれていきました。話を聞くたびに触らされた彼女の腕の中に残されていたガラス片の感触は、今も確かに指先に残っています。

 世光保育園は、8月初めに「平和を考える集い」を行い、子どもたちと一緒に平和の大切さを考えます。同時に、争うことの愚かさを学びます。そして、年長児には私が児玉さんから聞いた被曝体験を語り聞かせます。切ない体験を共有することで、命こそ宝であるという思いを、お互いに心に刻みたいと思っています。
  園長:新井 純


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