Nintendo Switchという携帯ゲーム機の「脳トレ」というソフトがあります。簡単な計算やミニゲームをしながら、脳を活性化させるというものです。我が家でもだいぶ前に購入していましたが、最近夫婦でこれを使い始めました。その中に、短時間で数字や物の位置を覚えて答えるという、短期記憶の課題があるのですが、これが苦手です。若い頃、おばあちゃんが「昔のことは良く覚えているのに」と言っていたのが、ついに自らのこととなってしまいました。

 では、昔のことはよく覚えているのか、と言うと、そこも案外いい加減なものです。一例を挙げると、私は小学校の時の成績はとても良かったと自負していて、妻や子どもたちに、「パパは国語算数理科社会では、『良い』とか『5』以外取ったことがない」と豪語していました。ところが、引越しの際、両親の荷物の中から私の通知表が発掘(?)され、改めて見てみると、全然そんなことはなく、3とか4も転がってました(笑)。

 さらに、その通知表を見返していると、こんなことが書いてありました。「クラスを盛り上げるのは良いが、友だちを巻き込んで度が過ぎる」「クラスの決め事を守るように」「友だちへの配慮が必要」今思い出せるだけでもこんな感じで、結構厳しい言葉が並んでいました。これを読んだ私の両親は、どんな心境だっただろうか、もし自分の子どもの成績表にこんな言葉が並んでいたら、私はどう思っただろうか、と思い巡らせました。

 そう言えば、給食の時間、盛り上がり過ぎて「廊下で食べなさい!」と教室を追い出されたことがありました。でも、その後廊下の方が盛り上がったために、教室に連れ戻されました。風邪で3日ほど休んだ後登校した時には、友達には大歓迎で迎え入れてもらえた代わりに、先生からは「純がいなかったこの3日間は、とても静かで落ち着いていた」と嫌味を言われました。でも、それを聞いた私は「頑張って盛り上げなきゃ!」と全く逆のことを考えていたのでした。学びや生活習慣を身につけさせ、クラス運営を通して社会性も育まなければならない先生という立場にしてみれば、はた迷惑な生徒だったのは間違いないようです。

 一つだけはっきりしていることは、それでも私は見捨てられなかったということです。通知表で指摘されたことについて諭されたことはあっても、打ちのめされて立ち直れないほど叱られた記憶はありません。諦められて放って置かれたと感じたこともありません。私はいつも、私の有り様を受け止めてもらっていたのです。

 ありのままを受け止めるというのは、決して簡単なことではありません。いわゆる受容できる範囲というのはありますし、受け止める側の心の余裕によっても変わるでしょう。また、何でもかんでも受容しなければならないとも限りません。わがまま、身勝手な行動、他者に著しい迷惑や危害を加える行動には制限をかけることもありますし、指導やしつけは必要なことです。

 その上で、仮に子どもであれば、その子の成長の過程をよく理解し、行動や言動を受け止めながら、必要な手を差し伸べるのです。

 私たちは心を傾けてもらったことをしっかり感じるものです。その思いは、必ず実りをもたらすと信じます。       園長:新井純


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