東日本大震災からもうすぐ11年が経とうとしています。なのに、巨大な津波が襲い沿岸部の町や集落が壊滅的な被害を受けた様子を見たのは、つい昨日のことのように思い出されます。

あの津波の時、園舎が津波に飲み込まれながら、津波が襲ってくる前に在園していた54名の園児全員を避難させ、無事だった保育園があります。宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区にあった閖上保育所です。

2011年3月11日午後2時46分、地震発生。外出していた佐竹悦子園長は急いで園に戻ると、園庭に避難していた職員たちにこう指示を出されました。「1、逃げます。2、車を持ってきてください。3、小学校で会いましょう。」

職員たちは駐車場に停めてある通勤用の自家用車を取りに走り、園児たちを分散して自分達の車に乗せ、2キロほど内陸に走ったところにある閖上小学校に急ぎました。園長の指示があってから25分後の3時20分には、全員が閖上小学校に到着し、校舎の階段を駆け登って屋上に避難しました。それから32分後の3時52分、避難していた小学校にまで津波は襲ってきました。

死を覚悟したと言います。津波は家や車を押し流しながら目の前に迫ってきます。助けてと叫びながら流されてくる人の姿もあったと言います。でも、手を差し出すことさえできません。津波は校舎2階まで到達していました。

お昼寝途中だった園児たちはパジャマ1枚で避難していました。東北の3月はまだ寒いです。珍しく雪も舞っていました。震える子どもたちを見て、3階に降りて暖を取るか、でも津波が3階まで来たらどうしよう、そんな葛藤を繰り返しながら、最終的には3階に降りる決断をしました。津波がそこまで到達することはなく、子どもたちは全員助かりました。

震災後、人々はこれを「名取市の奇跡」と呼び始めました。でも、佐竹園長は「これは偶然だったのではないし、奇跡でもない」とおっしゃいます。津波を想定していた訓練を重ねていたからこそ出来た、当然の結果だったのだと。佐竹園長は前年2010年から津波に備えた避難マニュアルの作成に取り掛かり、訓練していたのだそうです。このお話を佐竹園長から伺った時には、震えが止まらなくなったのを今でも思い出します。

今回の新型コロナによる休園について、経験したことがない事態なのに、幾度となく即断を迫られることを繰り返しながら、「これはまさに被災支援そのものだな」と思いつつ対応してきました。特に、連日連夜遅くまで奮闘されている保健所の献身的な姿は、まさに災害現場の最前線といった感じでした。

また、休園のためにお仕事の調整等ご協力いただいた保護者の皆様にも、本当に感謝でした。選択肢のない一方的なお願いでしたので、皆様のご協力なくしてこの困難は乗り越えられませんでした。子どもたちにも不自由な思いをさせましたが、こうして皆様が耐えてくださっているということが、私たち職員一同を奮い立たせ励まし続けました。本当にありがとうございました。
備えておくことの大切さを再確認いたしました。世間的には困難な状況は続いています。皆様の健康が守られるよう祈ります。

園長:新井 純


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