新入園児とご家族の皆さん、入園おめでとうございます。在園児とご家族の皆さん、進級おめでとうございます。ここから始まる1年が、子どもたちにとって、またご家族の皆様にとって豊かな実りあるものとなりますようお祈りします。

 山登りのために、北アルプスの玄関口の一つ、上高地に行きます。有名な観光地ですから、シーズンになると大勢の観光客が訪れます。散策を楽しむ観光客の間に、山を巡り歩いた薄汚れた登山者が混じるのは、いつも気がひけるものです。

 そんな上高地の散策路周辺には、ニホンザルがよく出没します。猿は群れで行動するのですが、群れには必ず子猿もいます。この子猿を観察するのがとても面白いのです。なぜなら、人間の子どもを見ているような気になるからです。

 赤ちゃん猿と思われる小さな猿は、常に母猿のお腹にしがみついています。京大霊長類研究所の松沢哲郎先生によると、チンパンジーの赤ちゃんを仰向けに寝かせると、左右対角線の手足を上げるか下げるかするそうです。例えば、右手を上に上げる時に左足も上に上げる。左手を上げる時には右足を上に上げるという状態です。これはどんな時でも母猿にしがみついているためなのだそうです。

 少し大きくなると、母猿の近くで遊ぶ様子も観察できます。同じくらいの大きさの子猿同士でじゃれ合って遊んだり、それを母猿にしがみつきながら見ている赤ちゃん猿がいたりします。

 グッと大きくなって、イメージ的には小学生低学年くらいの子猿になると、群れから離れない程度に自由に走り回り、子猿同士で鬼ごっこやかくれんぼでもしているのかと思うほど活発に遊びます。

 私が興味を惹かれるのは、そうした自由に走り回る前の段階の子猿です。母猿の元からは離れるのだけど、何も気にせず走る回るまでの度胸はなく、離れてみては母猿の元へ戻り、あるいは思いのほか遠くに離れすぎたのか、私に観察されていることに気づくと、近くの障害物に身を隠して怯えているような姿を見せるのです。

 人間の子どもも、お母さんにべったりくっついて安心を得る段階から、少しずつ離れては戻りというのを繰り返し、だんだん離れていく距離も時間も増えていく、そのようにして成長していきます。離れていけるようになるのは、いつでも戻れる、戻れば母親(家族・保育者)がいる、という安心を抱けるからです。見方を変えれば、安心を抱けない、信用を持てなければ、いつまでも離れられません。ですから、まずは子どもが安心できるように「いつでもここにいるよ、大丈夫だよ」ということをしっかり伝える必要があります。

 年長児になっても、パパママとくっついている安心を欲しています。園生活がどんなに楽しくても、保育士のことがどんなに好きでも、パパママから得られる安心には代えられません。パパママであるというだけで、子どもの心に代え難い安心を与えられるのです。「子どもをしっかり抱きしめてあげて」と良く言われるのは、そういうことなのです。このことをぜひ覚えておいてください。そして、子どもの心(気持ち)を想像しながら、寄り添ってあげてください。みんなの笑顔が増えますからね。
園長:新井 純

『園長ブログ カピバラのひげ』 | 02:04 PM | comments (x) | trackback (x)
 新型コロナウィルスがいよいよ本気出してきましたね。誰も罹患したことがない新しいウィルスだから免疫もなく、そのために一気に蔓延するとのこと。かつてヨーロッパの白人が中南米に攻め込んだ際に一気に壊滅的ダメージを与えることができたのは、やはり病原菌が原因だったのだそうです。ヨーロッパでは何度も流行して多くの人が免疫を持っていた病も、中南米に行けば全く新しい病気として、免疫のない人々の間で大流行し、その隙に征服してしまったというのです。

 似たような話は他にもあります。私がかつてボランティアで通っていたミクロネシア連邦ポナペ島での話です。アメリカが統治していた時代、キリスト教の宣教のために5組の宣教師夫妻がこの島に派遣され、熱心に布教活動を行いました。しかし、お楽しみのプログラムには多くの島民が訪れるものの、4年かかって一人も信者になる者がいませんでした。なぜなら、島には5人の酋長がいて、力を持っていた酋長の許可がなければ信仰を持つことは出来なかったからです。

 ある日、スペインの捕鯨船が水と食料の補給に立ち寄った際、島にコレラを持ち込んでしまいました。それまでコレラがなかった島ですから一気に蔓延し、島民の1/3が犠牲になるほどの大惨事となりました。

 その時、いち早くコレラであることに気づいた宣教師たちは、ワクチンを緊急輸入し、島民たちに接種し、多くの人々を助けました。そのことをきっかけに、酋長たちがこの宣教師たちの働きを讃え、キリスト教の信者となりました。そして、つられるようにして島民たちも続々と洗礼を受け、島民皆がクリスチャンになったのでした。

 ここで書いた免疫というのは、肉体的な事柄のことですが、精神的な事柄にも免疫という言葉を当てはめることがあります。例えば、何か困難な状況に遭遇した時、似たようなことについて何度も経験があれば、うろたえたりくじけたりするよりも先に、それを乗り越える方法を知っているとか、やり過ごす術を得ていて、これに耐えられるものです。これを「免疫がある」と表現するわけです。逆に、経験が足りないと、打たれ弱いとか免疫がないという評価になるわけです。

 私たちは誰でもいつでも気持ちよく快適に過ごしたいと思うものです。穏やかな春の陽を浴びながら心地よい風に吹かれているような、そんな気持ちでいつも過ごしたいのです。しかし現実はそうとは限りません。天気と同じように、晴れの日もあれば雨の日もあるし、厳しい嵐に晒されることもあります。そして、大人になったり、責任を持つようになれば、その風当たりも強くなっていくのです。そんな時、私たちを支えるものの一つがやはり免疫なのかもしれません。それまでに経験して培ってきたものが、私や私の周囲を守るのです。

 でも、それだけではありません。免疫のない者を免疫を持っている者が支えることもあるでしょう。大切なのは、困難に晒された時、私たちはひとりぼっちではないと信じられるものを得ていくことです。私が支えることも、支えられることもありますが、ひとりぼっちじゃないことを知ること、それこそが、私たちにとって最も大切な免疫になるのかもしれません。
園長:新井 純

※この記事は、2020年2月29日発行の園だよりに記したものです。

『園長ブログ カピバラのひげ』 | 02:01 PM | comments (x) | trackback (x)

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